日本画の革命児、川端龍子。豪快な作風で会場芸術を貫く
川端龍子(かわばた・りゅうし)は、明治に生まれ、大正~昭和にかけて活躍した男性日本画家です。巨大で大胆な構図と鮮やかな色彩の作品を制作し、伝統的な日本画と異なる表現が特長です。一時は日本画界の異端児とされましたが、展覧会で観られることを第一にした「会場芸術」を提唱し、旧来の日本画に挑戦しつづけました。
現在では横山大観、川合玉堂とともに「近代日本画の3巨匠」と称されています。この記事ではそんな川端龍子の生涯と、作品の魅力についてご紹介します。
川端龍子のプロフィール
▲川端龍子が生まれ育った和歌山市の街並み
若き日は新聞社で働きながら洋画家を目指す
川端龍子は、1885年和歌山県和歌山市に生まれました。本名は昇太郎といいます。1895年、10歳のころに家族と東京へ移り住み、浅草や日本橋で育ちます。幼少の頃から絵を描くのが好きだった龍子は、中学生の頃に新聞社の公募で絵が2点入選したことがきっかけで絵の道を志します。
1904年に中学校を中退。白馬会洋画研究所、太平洋画会研究所で洋画を学ぶ傍ら、国民新聞社などで挿絵を描いて生計を立てていました。
1913年、28歳の頃に洋画への憧れと修行のために単身渡米しますが、自身が描く西洋画への行き詰まりと、ボストン美術館で出会った日本の古美術「使徒所行讃」に感銘を受け、その後は日本画へ転向します。
日本画に転向、才能を開花させるも「会場芸術」と批判される
日本画に転向した龍子は、めきめきと頭角を現していきます。1915年に再興日本美術院展に初入選すると、その2年後には横山大観が率いる日本美術院同人に推挙されます。日本画を独学で学び始め、4年という異色の早さでした。
龍子が制作したのは、独創的な構図と激しい色使いの、規格外に大きな作品。従来の日本画の本流とはかけ離れたものでした。当時好まれていたのは寺社や茶室など小さな空間に飾られるような、繊細で優美な「床の間芸術」。龍子の自由すぎる作品は、次第に「粗暴で鑑賞に堪えない」、「会場芸術」と批判にさらされることになります。
横山大観(よこやま・たいかん)からの信頼も厚い龍子でしたが、そのような画壇の風潮にそぐわず、1928年には日本美術院同人を脱退することとなりました。大観との交流も断絶してしまいます。
「会場芸術主義」を掲げ大作を発表。人気画家に
日本美術院を脱退した翌年の1929年、川端龍子は自ら絵画団体「青龍社」を立ち上げ、独自の道を歩むことを決意します。画壇の批判を逆手に取り、展覧会で人々を感動させる「会場芸術主義」をスローガンに、次々と大作を発表します。龍子の規格外の作品群は、多くの人々を圧倒し、支持を集めていくのでした。人気作家となった龍子を帝国美術院会員、帝国芸術院会員に推す声もありましたが、いずれも辞退します。
1941年に太平洋戦争が勃発。自由に絵を描くことが許されない状況でも創作意欲は衰えず、戦争をテーマにした作品を多く残しています。戦時中に妻と子供を失った喪失感をキャンバスにぶつけていたのかもしれません。
1959年、文化勲章を受章。1962年には、文化勲章受章と喜寿を記念して東京都大田区の自宅敷地内に龍子記念館を設立。現在では約140点の作品が所蔵されています。
1966年、池上本願寺に奉納するために「龍」を制作していましたが、完成を見ることなく龍子は80歳で亡くなりました。後日、親交の深い日本画家の奥村土牛(おくむら・とぎゅう)が眼を描き入れ画竜点睛し、現在では天井画として見ることができます。
川端龍子の作品の特長
▲川端龍子の作品「香炉峰」のモチーフとなった戦闘機のイメージ
「会場芸術主義」を掲げた大胆でスケール感あふれる作品
川端龍子は展覧会で見てもらうことを目的とした作品、「会場芸術」が自分の目指す道だと考えるようになりました。
龍子の作品は横幅が約7メートルを超えるものも多く、巨大な画面いっぱいに自由奔放で躍動感あふれるモチーフが描かれます。横幅約7.2メートルの代表作「香炉峰」は、中国にある香炉峰の上空を飛ぶ戦闘機を描いています。戦闘機は半透明で、背景が透けて見える様子は戦争画の中でも異色であり、龍子ならではの大胆な発想を見ることができます。
また、見る人が迫力を感じる理由は単に大きさのためだけではありません。観る人が迫りくる立体感を感じられるように、龍子は画面の中に奥行を常に意識して描いています。洋画から学んだ独自性、日本の伝統美やリズミカルな装飾性、豪胆さと繊細さを併せ持つ華やかな作品が川端龍子の特長です。
時代に合った多面性があるモチーフで民衆の心をつかむ
龍子の作品は巨大なものが多いのですが、筆が速く多作で、様々なモチーフのものを制作しています。
初期は洋画家を目指したこともあり、筆致を強調したゴッホのような作品も残しました。日本画に転向して以降スローガンとした会場芸術は、ダイナミックさ、スピード感を重視し、通常の日本画では描かれないような変わったモチーフを多く選んでいます。
さらに戦争をテーマにした作品や金閣寺の炎上のニュースから描いたものなど、ジャーナリスティックな視点の作品もあります。龍子が取り上げるテーマは幅広く、多面性があります。新聞の挿絵などで生計を立てていた経験が、客観的でジャーナリスティックな目線を育んだのでしょう。
会場で多くの人に見られることを第一としていた龍子は、その時代に合ったモチーフで多くの人々を励まし、感情を揺さぶりました。
川端龍子の評価は?日本画の異端児は近代日本画の3巨匠に
川端龍子が日本画を始めた当初は日本美術院で同人に推挙されるなど、高く評価されていました。しかし次第に「会場芸術」と批判され、日本美術院同人を脱退。横山大観に反旗を翻し、異端の画家となります。
龍子は「会場芸術」こそ自身の進むべき日本画の道と定め、青龍社という革新的な日本画の団体を発足。次々と作品を発表していきました。そうして独自の芸術を切り拓いた功績が讃えられ、龍子は文化勲章を受章。作品のスケールの大きさから「昭和の狩野永徳」と呼ばれることもあり、現在では横山大観・川合玉堂とともに「近代日本画の3巨匠」と称されています。
2017年には、没後50年を記念して東京の山種美術館にて特別展「没後50年記念 川端龍子―超ド級の日本画―」が開催されました。代表作だけではなく家族に向けた作品も初公開され、龍子の画家人生に迫る内容で好評を博しました。他にも各地で多くの展覧会が開催されています。
龍子の手掛けた規格外の作品は、現在でも新しい感動をもたらし、人々を魅了し続けています。
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川端龍子の代表作
川端龍子の代表的な6つの作品をご紹介します。
夢
1951年に制作されました。前年、岩手県・平泉にある中尊寺金色堂が補修される際に藤原氏四代のミイラが調査されることになったというニュースから構想した作品です。
金色の棺の中にミイラ化した遺体が収められ、周囲に蛾が舞っています。背景は淡い色彩で描かれ、どこか不穏な雰囲気と、幻想的な雰囲気の両方を併せ持っています。
学術的なニュースに取材した日本画として珍しい作品であり、龍子のジャーナリスティックな視線を感じさせます。
爆弾散華
1945年に制作されました。画面に散らばる夏野菜と、輝く金箔が印象的です。一見すると美しいこの作品ですが、終戦直前の8月13日に自宅に空襲が直撃し、菜園の野菜が吹き飛ぶ瞬間を描いたもの。龍子はこの空襲で近しい人を何人も亡くしました。
野菜は生命の象徴として表現、金箔は爆弾の残酷な閃光を表現しています。「散華」とは、若くして戦死すること。同様に仏を供養するために花をまき散らすことも「散華」といいます。この作品から、龍子の亡くなった人を悼む心を感じることができます。
草の実
1931年の作品です。前年に制作された「草炎」が人気だったことから、対になる作品として制作されました。
濃紺の背景に金色で秋の草花が描かれています。揺れる草花からは秋の風と強い生命力が感じられます。
画材は数種類の金泥と、白い部分はプラチナ泥を使用。奥にあるものと手前にあるもので濃淡を使い分け、奥行を表現しています。
秋の草花といっても、自宅近くに生えたすすきなどの雑草をモチーフとしており、それを特別な金泥で表現するという大胆な発想は、いかにも龍子らしい作品です。
松鯉図
牡丹
富嶽
まとめ
異端児と呼ばれながらも、大きなキャンバスと大胆な構図、鮮やかな色彩で日本画に挑み続けた川端龍子。現在でも多くの展覧会が開かれている人気画家で、作品は龍子の提唱した「会場芸術」の精神そのままに、今なお見る人に新たな感動を与えてくれます。
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古美術八光堂